『違い』が私たちを形作る—仏教哲学の視点から

世界的な仏教哲学者である鈴木大拙の名著、日本的霊性を読了した。

特に印象的だった言葉が「有るとは有るから有るのでなく、有るとは無いから有るのだ」という一説だ。
心に深く響いた。この言葉にはこの世界が抱える矛盾を読み解く鍵があるように思う。

世の中は争いに溢れている。国家、民族、個人同士の争いと、その形態は多種多様だが、その争いの多くが価値観や意見の違いであるという点では一致しているのではないだろうか。

では、違いとは何であろうか。

それはカテゴリーとしての違いである。価値観や考え方などの内面的なもの、性別や肌の色などの外見的なもの、国籍や学歴など所属してきたものの違いなどのカテゴリーによって私たちは違いを認識している。では、そのカテゴリーはいかに生まれるか。全てが同じ場合にはこのカテゴリーという概念は生まれてこない。

つまり、カテゴリーが生まれるには異質な存在がいなければならなず、違いを感じるためには自分とは違う誰かがいなければならない。自分自身というものも他の人との外見・内面の違いから認識されるものであり、人間がロボットのように画一的なものであれば自分自身など存在しないことになる。人間は誰かがいないと自分自身を見出すことができないのだ。

価値観の違いや肌の色の違いなど色々な違いが自分自身を認識させる。自分自身は自分だけで成り立つものではなく、他の人や他の人との違いによって作られそれが「自分らしさ」となる。
しかし、世の中にはその違いによって争っている。自分自身を誇示し権力を渇望し他人を蹴落とそうとする。あるいは自分自身に自信を持てず精神の病に陥る人もあるだろう。個人を尊重することの大切さは昨今では強く尊重される傾向にあり「自分らしさ」を追い求める人生が大切だとされている。その意見に僕自身も同意するものの、「自分らしさ」を求めるあまり、他者への尊重を忘れてはいないだろうか。

自分自身を認識させてくれる他人とは、本来、敵でも比較対象でもない。
他人とは自分自身を認識させてくれる感謝すべき対象だと考えることはできないだろうか。自分はいつも見えない誰かに支えられいる。そう思えれば感謝の機会が増える。感謝の機会が増え世の中が感謝に溢れてくる。そうなれば世の中から争いは減るだろう。理想と言われればそれまでであるが、見えるものにのみ価値がおかれていると錯覚しがちな現代を生きる我々にとって、見えないことに思いを馳せることこそ必要ではないだろうか。

見えない部分に目を向け、隠された大切な何かを探すことは、毎日を心穏やかに平和に生きる秘訣である。その一つの方法として、今日もゴミを拾うのだと、この本を読んで実感した。